昭和56年12月25日 朝の御理解
御理解第12節
「神に会はう思へば庭の口を外へ出て見よ空が神下が神」
天地金乃神様の正体は天地そのものだと言うわけですね。それが分かっただけではできんのですから、その天地金乃神様の働きを分からして貰う。どう言う風に分からして頂くかと言うと神愛天地に満つると言うこと。天地の中には神愛が満ち溢れておるんだとまあ言うならば神徳が満ち溢れておるんだとね。
教祖の神様の神徳の中に生かされてありとこう言われます。それもね我情を取り我欲を取ってみるとそれが分かるんだと、我身は神徳の中に生かされてある。その神徳の中に私共はあると言う事が分かるね。神に会いたいと思えば庭の口を外へ出てみよとね。空が神下が神とこう仰せられる。
だから天地そのものが天地金乃神様の正体なんだと。その天地金乃神様の働きを合楽では神愛と見た、悟った。そこから一切神愛と言う生き方が合楽理念にうたわれるようになった。一切神愛ね、その神愛が天地の中に満ち溢れておる。神徳天地に満である
それをね私共は分からせて頂く事の為に実感として分からせて頂く事の為に信心の稽古をしておると言うてもいいのです。信心の稽古をさしてもらう。いわゆる実験実証はその全てがね成程神様の御働きの中に無駄はないんだな。一切が神愛だなといよいよ分かっていく。成程天地の中に神徳満ち溢れてある中にある私共であると言う事が、いよいよ分かってくると言う事が私お道の信心が分かって来る事だと思いますね。
どんなにそこに難儀を感ずる事柄・問題がありましても、それをよくよく分からしてもらうと神愛の現れであると言う事が分かる時に御礼の言えれる心が生まれてくる。それがおかげなんです。
神徳天地に満ち渡っておるね。その中におる私共であるこの実感と言うものはね。理屈で聞いただけでは分からない。やっぱり通る所を通らせて頂いて言うなら難儀な中も通らせて頂いて、それがおかげになった時にはじめて自分が頂いとる力と言うものが、あの難儀の言うならあの難儀様のおかげで今日のこの力も徳も受けたんだと分かってくる時にはじめてはあ神愛だったなあと分かるわけね。 だから通るとこは通らせて頂いておる事に対してですよ。様々なね言わば本当にそれを有難く受けさせて頂けれる、まあなかなか痛ければ痛いのですけれどもね。やはりそう言う力を下さる事の為のいわゆるお働きとして合楽では全ての事に御の字をつけるわけです。 金光教で言う神様と言うのはもう天地そのものを神様と言うんだあと言うたり分かったりしただけでは、何もならん。それが全ての中に神愛を悟り全ての中にこれは全ての事と言うよりも、自分自身の上に起きてくる全て事柄が天地金乃神様が私に下さる事柄として御の字をつけていくのである。御事柄として受けていけれる内容が段々と出けてくるのに従ってです。金光教の御信心のいよいよ素晴らしい事が分かってくると思うですね。
昨日テレビを見せて頂きよりましたら、あるお年寄りの八十何歳と言われる方の話を聞いて。例えば総理大臣なんかでも、もう評判良かった総理大臣はつまらんち、もう死ぬまで評判の悪かった、人気が悪かった。いや人から命でも狙われると言うほどしの大臣ほど偉いんだと。だから死んでみなきゃ分からんと言うような意味の事を聞いてから、そうだなあと思います。
評判の良い政治家なんて言うものは例えばね。そんなら命を狙われる例えば総理大臣なんかと言うのはもう命がけでお国の為に働いておると言うのだから素晴らしいんだと言うふうな言い方をしておられます。それを聞きながら私は思うた。はあ合楽教会は本当にいよいよどこ行っても評判が悪いね。こりゃやっぱり合楽の場合は私が死ななければ本当の真価は本当の事は分からんのだろうと私は思うた。
大阪にまいります時にそれこそ日本一と言われる三宅先生が私と二人で大阪教会の別室で対談をさせて頂きました時に「大坪先生もう本当にみんながね。どうして合楽と組んで公演会、あのお話をするのかと言うて先生、あなたの事を散々悪口を聞きました。けれども私はそんな事に耳は貸しません」とそう言う意味の事を言われるのです。先生お宅も随分評判が悪かですよち言おうかと思ったばってん言わんかった。
又本当に評判が悪いとですけども自分な分かってないわけね。そして思うのにやはり評判が悪いと言われる。結局はどう言う事かと言うと先生自身が誰が何と言うても自分の信ずる所へ只一筋に進んで行かれるから評判が悪いのです。合楽の場合でもそうです。
私が人情を使うてですよね。そしてあの自分の考え方を曲げて行くならね、合楽はもう本当に評判は良くなるでしょうけれども、それでは自分の芯を曲げる事になるね。なら政治家の方達でもこうする事が日本の為になる事だと確信するから、それを誰が何と言うても、目先の事だけしか分からん人達がガタガタ言うたりする事をそれをやってのけようとするから評判が悪かったり、いよいよの時になると結局命までも狙われると言ったような事になるのと同じような事が言えると思うんですね。
そしてなら一度私に接し合楽の信心が分かってくるとどう言う事になるかね。もうそれはほんの一部の人達ですけれども、本当の金光教の神髄をいっているのは合楽だと言うふうに分かってくると信じます。そしてこれは本当に分かったらね。金光教の信心と言うものが例えば昨日のあたりの御理解の中に感じますように、いよいよ金光教の素晴らしい独自性と言うものがね。他の他宗他教にはないと言う事を教団人自体が知っていないと言う事ね。
そう言うような事が合楽理念の中には沢山出てくるわけですね。本当に教祖金光大神の信心が、かくも深くて広くてしかも本当のもんだと言う事を説いておるわけです。まあ予言者世に入れられずと言ったような事を言うのも当たっておると思うですね。
合楽の場合は、けども本気で本当の金光教の信心によっておかげを頂いて助かった信心が段々分かってくるようになると教祖様の御教えとその実際とが段々ちごうてくる。本当の事を教えてもらう所はないだろうかと、本当の信心を教えてもらう所はないだろうかと。言うならば求め続ける人達が段々出けてくるようになると合楽に来ずにおれない事になってくるんぢゃないでしょうかね。
伊万里の竹内先生あたりがそうでしたね。まあ当時椛目を留守すると言う事がないのにもかかわらず、四回見えたけども、四回とも私は不在だった。だから当時の久保山先生と色々お話をして、そして五回目に見えた時に初めて私と会ったんです。そして頂かれた御理解でもう一言で傾倒されたです。
私そん時の事を今の教団は言うならおかげを頂きすぎておる、言うならばお恵みの水が多すぎて折角の立派なタンボが湿田になってしまっておる、じるれざたになっておる。だからどうでんここに湿抜きをしなければ教団はいよいよ衰微していくばかりだとね。
当時の椛目で私がね。だから当時の椛目で私が言っておった事は湿抜きの為の言うならば信心だと言う意味の御理解を私は説いたと思っとります。もうまさしくそうです。ならその手立てと言う所にです。金光大神の信心をもう一遍深く広く頂き直さなきゃならんと言う事になって、それに増えていっておる当時の椛目の信心に傾倒されて今日の竹内先生の一家の信心があるわけです。
増えてくる、本当なものをもうそれこそ竹内先生の言う、もう諸国行脚して回ってでも本当の金光教を教えてもらえれる先生があるならと言うて、そこに有名な先生がある、お徳の高い先生があると言うとわざわざ行ってそれを求められた。けども与えられなかったと言っておられますですね。
それが合楽によって与えられたと昨日も竹内先生、ここの竹内先生、正教先生の所に先だってから名古屋で大変熱心なもう合楽の事を聞かして頂いたら、もうじっとしておられないと言うような思いで一晩泊まりで見えられました。そして合楽の御比礼の模様、又教えられるその一端を聞かして貰うて、もう兎に角今まで自分がそれこそ求め続けておったものに会った喜びを同心の人達にこうやって話していかれた。
もう皆の方達がそれを聞いて是非合楽に例えば四、五日でも良いから修行に行きたいと言うておる人達がありますと言うて二回にわたって御礼の手紙を同時にそう言う事が書いてあるね。中には竹内先生が北米布教出来るならニュ-ヨ-クあたりに布教したいと言ったような願いをもっておりますが、その東京におられる大変同心の方がそれを聞かれてどうでもそのニュ-ヨ-クあたりでも布教されるならば、自分が一肌脱がしてもらいたいと言ったような事まで書いてありました。
神様の働きと言うか結局本当なものとの出会いと喜びと言うものがね。おそらく、だからあちらから又今同心の人達で是非合楽に参拝のおかげを頂きたいと言うてきとりましたが。評判の例えば悪いと言う事が、私が確だと信じておると言う事は、私が練り上げて信じておると言うのではなくてね。神様との交流、そこから生まれてくる私の確信だから、誰が何と言うてもこれだけは曲げられんと言う、そう言う生き方ですからね。
そんな風に考えてない人は違っている、間違いであると言う事になってくるわけですけれどもね。だからこれは本当の真価と言うものが、これは私は昔から思っておった沢山のここには御理解が三十年間のずーっとそれが記録に残っております。このテ-プで私の話しを取るようになってからこっちは、もうそのテ-プが全部取ってあります。もうそれはもう驚くだけ沢山。もうここの廊下に一杯高く積み上げるだけあります。
そいが全部消さずに取ってあります。ですからこれはおそらく私が亡くなった後にもう徐々にそれが研究されたり、これが本当の事だと言う事が分かる人の又求める人の為にお役に立つ事だろうと思いますね。だから今評判が良いとか今人気を得たいとか言ったような事は私は思わないし、只自分の確と信ずる所をその確と信ずるのをどこに焦点が置かれてあるかと言うと今日皆さんに聞いて頂いたようにね。神徳天地に満ち渡らせ給うのである。
それを具体的に言うと全て個人個人の上に起きてくる事柄も問題、それも天地の親神様のあなたに対する働きかけである。だからそれを御事柄として受けていかなければならないね。初めてそして神愛と言う事が分かるね。神愛天地に満つるところの言うなら実感。
それを教祖は「我情を取ってみよ我欲を取ってみよ、我身は神徳の中に生かされてあり」と言うふうに表現された。だからそこん所の実感にひたらせて頂く生活が私は本当の信心生活だと言うふうに思います。
ここではね。空が神だよ下が神だよとね。と言う事はあーそうかなと直ぐ分かる。けれどもね、その働きを分かると言う事はね。理屈の上では分かるわけね。これも天地の親神様の働きなんだと言う事が分かるんだ。けれどもそれを実感として分からせて頂く為に、言うならば一切神愛と言う事を分からせて頂く事の為にね。
一切の事柄を言うなら御の字をつけて頂く生…言うなら受け方の稽古とでも申しましょうかね。一切が御事柄であると言う受けた方をさしてもろうてね。それが痛い事、痒い事ね。にがい思いをするような事であっても、それを神様の御働きとして受けさせて頂く、そこから成程神愛、一切神愛だなと分かってくるわけですね。
だからどう言う例えば難儀な問題でも、おかげを下さろうとする為の働きであると言う事を私は確信される為にね。言うならば例えそれはぶの悪い損になるような事であっても、悪口の元になってもね。そのこれと言う本当な事が分かった時、それを貫かせて頂くと言うのが信心にはいるようです。 妥協は許されません。いわゆる人情では道は開けません。もう苦しければ苦しいほど、そこに神情一筋で貫ぬいて初めてああ成程神愛だな。ああ、あん時に力を受けた、徳を受けたと言う事柄が言えもし、思いも出けるようになるのです。神徳天地に満つるね。その実感を私共が頂かせて頂く為に、言うなら私の上に起きてくる様々な事柄の全てが神愛であると分からして頂かなならんと言う事であります。「どうぞ」